S小学校
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
今回ご紹介するのは、岡山県某所にあるS小学校です。といっても今では使われることのなくなった、いわゆる旧校舎とも言われる木造1階建ての物件です。元々は明治6年に建てられた別の校舎からの移転だそうです。
こちらの学校は創立が大正8(1919)年。ちょうど第一次世界大戦が終わった年ですね。このころのお生まれの方は、御年98歳。その前の明治6年の初代からだと、なんと134歳ということになります。
中々この年まで生きておられる方も、そう居ないと思いますが^^;
トトロのヒロインさつきちゃんが通っていたような学校ですね♪
さぁ今回も掻い摘んで見て行きましょう。
詳細は紅魅隊長のYOUTUBE動画をお楽しみに♪
まず入ったのは音楽室。
なぜか伸長測る「アレ」が置いてありますw
実はこの校舎L字型になっていまして、その一番端っこに位置していました。
当時の建物ですから、防音壁なんてありませんので、授業中でも結構音は聞こえたんじゃないでしょうか。
そういえば小学校の時って、クラスで一人づつ歌を歌う試験ありましたよね?
好きな子の歌声に耳を澄ました児童は、一人や二人ではないはず♪
廊下に出るとこんな感じです。
この校舎の凄いところは、130年以上経過しているにも拘らず、全体的に非常にきれいだ、ということです。
落書きはおろか、床や壁もとてもきれいで、しっかりしています。
それでも場所によっては朽ちて底が抜けている、もしくは抜けかかっている部分もありましたが・・・
それはそれで、築年数を考えれば「そんなもん」なんでしょう。
次は隣の理科室へ。
札が壁に突き刺さってるんじゃなくて、
壁から突き出た棒に札が吊り下がってる。
これもまた当時の風合いがあっていいですね。
入ってみると、なるほど。
奥にはたくさんの実験器具が並ぶ棚があります。
が、何よりも目に付くのがやっぱり手前のアレですよね。
真ん中から二つ折りになっている人体模型。
模型、なのか??
なんせ人体を知るアレです。
パッと見、進撃のでっかいオッサンですねw
筋肉の手前、奥までしっかり分かるようになっているので、よくよく見るとちょっとホラーです。
横にある何かの顔がまた色々醸し出してます^^;
さっきのアレを反対側から見ると、もう完全にホラーです。
いや、分かりますよ。骨格と内臓標本ですよね!?
この校舎で夜になると走り回っているのでしょうか?
Σうわぁっ!?
と声を上げそうになったのが、デカいヤモリ?トカゲ?の剥製か何かでしょうか。
真ん中がひしゃげて空気の抜けた風船のようになってます。
まてよ、隣が音楽室。
軽やかな歌声に合わせて解剖実験♪
ありえたのかも・・・
それでは、2枚目の写真の右側に写っている校舎に向かいます。
おっとっと。
入っていきなり床が抜けていました。なんとか乗り越えてきましたが、抜けた床の付近は板が緩んでいたのでちょっと離れた位置からの一枚。
入口の戸の中まで抜けていました。
気を取り直して先へ進みましょう。
ちゃんとセンターに点線が引かれていますね。
右側を歩くように教えられていたのでしょうか。
宿題を忘れたり居眠りをしている子は、廊下に立たされていたのかもしれませんね。
さぁ、嫌な思い出のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。職員室です。
先ほどの廊下より少し奥まったところへ通路が増設されてできたような入口です。
「職員室」の札も先ほどの理科室とは取り付け方も近代風ですね。
と言っても自分の子供時代が基準なんですが^^;
中は物でいっぱいです。
他の部屋も結構物置として使われていた様子で、中にはこんなものまでありました。
ダイヤル式の黒電話
受話器を手に取ると耳元には”ツー”と・・・
鳴りませんでした。
そりゃそうだwww
さぁ、学校の主役。
児童たちの学びの場です。
長年使い回されたのか、前に書いた学年の文字が消え切っていませんw
この教室は2年生と4年生の教室だったようです。
奥は5年生と6年生でした。
晩年は1年生と3年生は居なかったようですね。
きっと上級生が下級生に勉強を教えるような微笑ましい光景も多くあったことでしょう。
右側の年表、見覚えないですか?
自分の子供のころには同じような年表が教室に貼ってあった覚えがあります。
なんだか懐かしい気持ちになりました。
さて、こちらは大講堂。
自分の子供のころのような体育館という概念は感じませんでした。
もしかしたら低学年の児童ならドッジボールぐらいはできたかもしれませんが、高学年になるとそれなりに力もついてきますから、全力で走り回ったり運動するにはかなり手狭です。
純粋に集会などを行うための設備だったのでしょう。
ついでに言うとプールもありませんでした。夏は近くの川で泳いだのでしょうか。
最後にお便所。
木製の扉に汲み取り式(いわゆるボットン)。
当時は今と違って扉が手前に開くタイプだったんですね。
分かりにくいですが画面右端にはドアノブもついています。
昼間でも薄暗く、扉を閉めると個室内はかなり暗いはず。
これは怖い。
トイレの花子さん、赤い紙・青い紙、などトイレにまつわる怪談がたくさん出たこともうなづけます。
さて、今回は素晴らしい物件でした。
これまで行った中でも最良の物件だったかもしれません。個人的には昭和、大正時代が好きなので、当時の雰囲気を知ることのできるこういった遺産はこれからも残してほしいと思います。
訪問される方も多くいるようですが、幸いにも皆大事に見て行ってるんだな、ということが感じられました。
兵庫1周廃墟巡礼の旅 その3/3
周遍寺
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
今回は兵庫一周遍最終回の周遍寺です。
加古川にあるこちらは廃寺とのことで、意気揚々と向かってみたのですが・・・
お堂の一つです。
一見これのことかな?と思ったのですが、じつは違ったようです。
以前はもっと大きな廃堂があったようですが、どうやら倒壊してしまったのか、それとも取り壊したのか。
土台の跡のみが残っていました。
少し上に登ってみます。
綺麗な参道に沿って登っていくと、現本堂に当たります。
その裏手にはさらに上に続く道が・・・
奥へ進んだ先にはまだ新しい鳥居がありました。
この先にはお稲荷さんが祭られていました。
帰路の無事を祈り、降り始めます。
降り始めてすぐに何とも不気味なお地蔵様が。
こちらはすべての顔が抉られ、その上からコンクリートが塗り込められています。
何があったのでしょう・・・
降りてくると、山あいの中に加古川の市街地が見えました。
さすが、標高の高い位置にあるだけあってきれいな景色でした。
もっと明るいうちの晴れた日なら、もっと爽快な景色だったであろうことが惜しまれます。
最後に記念撮影。
今回初参加だった紅魅隊長と、その後輩君。
最後に廃堂が無くなっていたのが残念でしたが、中々いい旅でした♪
兵庫1周廃墟巡礼の旅 その2/3
戸〇隧道&戸〇園
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
兵庫一周第二弾は鳥取手前のスキー場が近くにある戸〇隧道と戸〇園です。
隧道は新トンネルができてから10年以上前から廃道になって久しいのですが、鳥取側は不思議と隧道から冷たい風が流れてきます。
若い頃にはよく「天然のクーラー」代わりに涼みに来ていたものです。鳥取側に、ね。
旧隧道の特徴は、兵庫側からの外観と鳥取側からの外観が大きく違うことです。上のトップ画像は兵庫側ですが、コンクリートの劣化が進み、鳥取側とは比べ物にならないほどにおどろおどろしい姿になっています。
兵庫側は冬であれば隧道手前まで行けるのですが、今回の訪問は’夏’。植物が元気よく成長しすぎて近づくことができません^^;
こちらは初冬、もしくは秋口の写真です。
’もしくは’というのは10年ほど前の写真になるからです。
隧道へ続く道は当然廃道になっており、隧道手前では土が盛られ、ちょっとした丘になっています。
秋や冬であれば植物が減りこのように近づくこともできます。
さて、この暑い中「やっと涼めるぞ!」という期待と共に鳥取側に回ってきてみると・・・
なんじゃこりゃぁ!?
なんか目新しいシャッターが下りてます。
しかも鳥取側もコンクリートが痛み始めておどろおどろしさが出てきてますね。
それでも上の隙間からなのか、それとも全体的な隙間があるのか、冷たい風は流れてきていました。
こちらは約10年前の画像。
以前までは下半分はコンクリートで固め、その上に金網という閉鎖の仕方だったのですが・・・
推測するに劣化が進んで金網がボロボロになったのか、それともこの隧道に対する怪談話が原因で侵入する人が増えたからか・・・
簡単にお話しすると、日によっては左側のフェンスが開いており、トンネル内を行って帰ってくる途中でおばあさんが着いてくるそうです。途中で振り返ると入口のフェンスが閉じて開かなくなり、出られなくなる。というもの。
・・・出られなくなってどうやって話が伝わるんだ??というツッコミは無しでwww
ちなみに過去にフェンスを調べてみると、鍵はかかっておらず、簡単に開く小さな金具で引っ掛けて留めてあるだけでした^^;
さて、続いて廃ドライブイン戸〇園へ向かいます。
向かう途中ゲリラ豪雨に遭い、残念ながら全体の写真を撮れませんでした orz
中は天井が落ち、床には残骸が散らばっていますが、落書きなど荒らされた形跡はさほどありません。
机や椅子、食器や設置されていたであろうテレビなど、いわゆる粗大ごみで出せそうなものはほぼなくなっていました。おそらく閉館の際に業者さんが撤収作業に入ったのでしょう。柱にはたくさんの連絡先がメモされており、金属や電気製品に関して「これに関しては●●さん、連絡先」という意味合いで書かれていたのではないかと思われます。
右下の写真は厨房になりますが、こちらに関しては結構な調理器具?が残っていました。
大物はそのまま放置したのでしょうか。
おや?誰か住んでいたのでしょうか??
昔はよく河原なんかで見かけたえっちぃビデオが転がっています。
子供のころは周囲のヤンチャな子たちがよく河原なんかで拾ってきた話を聞きましたが、まさかこんなところでお目にかかれるなんてwww
物はかなりマニアックなものでしたが、ジャンルは同じだったので、すべて同一人物の物かな??
ご丁寧に近くにはモニターまで放置されていました。
電源はどうしていたんだろう?w
おまけ
途中、近くのドライブインでお昼ご飯を頂きました。
揖保乃糸を使った「戸倉峠名物/滝流しそうめん」です。
川を越えての壮大な流しそうめんは一人づつ専用のレーンから流れてきます。
目の前にいわなも住む川が流れており、冷たい風が吹いてくるので、夏でも大変涼しいです。
この峠にはいくつかドライブインがあり、近くにはスキー場もあります。
10年前には役割を終えたボンネットバスが看板代わりに置いてあることもありました。
今でもあるのでしょうか??
この辺りはスキー場があるだけに、冬場は雪が降りますし、道が積雪で凍ることもあります。
冬に峠を通行される際には冬用タイヤを装着し、安全運転を心がけましょう。
兵庫1周廃墟巡礼の旅 その1/3 吉〇苑
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
先日朝も早よから、丸一日かけて兵庫一周するような形で探索の旅に出てきました。
今回は全3回に分けてご紹介していきます。
まず第一弾は丹波市にある、吉〇苑です。ここはかつて結婚式場と旅館、ドライブインが併設されていたようです。
すぐ近くに親(明治)・子(昭和)・孫(平成)のトンネルがあり、現在通行可能なのは平成のトンネルのみです。
明治・昭和トンネルに続く廃道区間には整備された公園とちょっとしたパーキングが用意されています。
この周辺は隧道・廃墟・廃屋など比較的多くの廃墟が密集しています。
喫茶店かレストランのスペースであったであろう室内。
床一面に割れたガラスや椅子などのガタクタが散乱しています。
正面玄関入ったところ。
受付のフロントでしょうか。
写真奥は吹き抜けの2階へ通じる階段が見えます。
受付のさらに奥にはロビーがあります。
さらに大きなガラクタがまとめられているようです。
1階のロビーの横には少し控えめな式場があります。
規模からすると式場というよりちょっとした会場のようでもあります。
さて、それでは2階に上がっていきます。
2階のエレベーターホール前。
エレベーターの扉は開いたまま、二度とエレベーターが迎えに来ることはないのでしょう。
こちらは式場のようです。
1階の物よりも大きく、立派なステージにシャンデリア、大きな窓と立派な作りになっています。
建物の奥に進むと、一番の広さを誇る式場が。天井にはミラーボールも下がっており、最も大規模な部屋です。
最も大きなこの部屋は「寿」の間のようです。
上は写真室。
作りはだいぶ違うようですが、ランク分けされていたのでしょうか?
それとも用途が違っていた??
こちらは2階の配膳室です。
小さなエレベータは1階の厨房と繋がっており、宿泊客の料理が次々と運ばれてきたのでしょう。
営業当時に使われていたと思われる食器類もたくさん残っていました。
こちらは客室。
全部で6.7室プラス、浴室、トイレとありましたが、客室はすべて畳張りの和室だったようです。
浴室、トイレは客室とは別でしたが、式場や客室と比べると少しチープな感じは否めませんでした。
こちらは「企画室」という部屋です。
中には多くのビデオテープや資料がほぼそのまま残されており、スタジオのような部屋も備えられていました。
今回はこれまでで一番の大型物件であり、一番のボリュームでした。
何より、1階の入り口付近には落書きがあったものの、それ以外はとてもきれいな物件でもありました。
幸先良し、ということで次の物件に向かいます。
その2へつづく。
今●廃村(滋賀)
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
今回ご紹介するのは滋賀県にある今●廃村です。
和歌山県にも同名の集落がありますが、今回それとは別件です。
霊仙(りょうぜん)の登山道の途中にある、かつての集落は1979年に廃村。
それ以降自然へと帰りつつあります。
登山道の途中なので、登山道はあるのですが、圧倒的に登山です。ハイキング気分で来ると結構大変なので、訪れる際にはしっかりとした運動靴、動きやすい服装など、準備してから行った方がいいです。
写真がブレていて少し見にくいですが、今畑への登山道を上がっていきます。写真では分かりづらいですが、道はかなり急な上に、細く、足を滑らせれば真っ逆さまです。
そんなところを今回同行の紅魅隊長ととし君はヒョイヒョイ登っていきます。普段運動不足な八重桜はエッチラオッチラ登っていきます。
登山道をヒィヒィ言いながら登っていくと、ようやく集落が見え始めました。ちょっと登ったところのお社跡のようなところで休憩、一服です。
眼下には廃屋と化した家が一軒、静かに佇んでいます。
さらにその上にも廃屋が一軒。
どうやらこの集落、山の一部に平坦な場所があるのではなく、斜面に沿って段々畑のように高さのある集落のようです。
ナンテコッタ・・・(´・ω・`)
もう少し先に進むと宝金寺というお寺と集落群が見えてきます。と言ってもほとんどの建物は倒壊、もしくはボロボロで、辛うじて建っているような状態です。
建物の中は危険なので入らない方がいいでしょう。
また紅魅隊長の話によると、建物の多くは鍵がかかっているそうで、管理、もしくは何かに使っているのかもしれません。
さらに上に登って散策します。
この辺からそれぞれ散らばって自由散策の開始ですw
随所に家の倒壊した跡地があり、倒れた柱や瓦が散乱しています。
その中にはテレビや金属製のお釜や空き缶、空の酒瓶などが、時に散乱、時にケースに入った状態で放置されていました。
家は倒壊して姿を消しても、石垣はしっかりと当時の姿を残しています。
かつては石垣の間の小道を、住民の方々は幾度となく行き来したのでしょう。
こちら2軒はそれぞれ別の土蔵ですが、一方は蔦が這い、一方は漆喰がはがれ、さらにヒビも入ってきています。
廃村となってから38年という長い年月は、頑丈な建物も徐々に自然へと返していきます。
ここにも家が一軒あったのでしょう。
家自体はすっかり崩れ、割れたガラスや柱、屋根瓦などがそこいらじゅうに散乱し、落ち葉と苔に覆われていました。
唯一、そこにかつての風呂場と炊事場であったろう面影が・・・
タイルやレンガをつなぎとめていたセメントは既に石化していて、積みあがっているレンガは簡単に持ち上がりました。これらもいずれは風化し崩れていくのでしょう。
集落を後にして、山を下ってきました。
山と田んぼに囲まれたのどかな風景が広がります。
天気にも恵まれ、水田を凪いでくる風は涼しく気持ちのいいものです。
今回の集落探索は、半分以上が登山でした。
冒頭に説明した通り、全くの登山道なので軽い気持ちで行くとえらい目にあいます。
また登山道の途中にある場所なので、登山客とも多く出会うことになります。
訪問の際はマナーを守り、迷惑となるような行為はくれぐれも慎みましょう!
祈祷院
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
今回は和歌山県紀の川市にある祈祷院を紹介します。
こちらはキリスト教の廃教会です。周囲にはバブル期に大量建築・分譲されたであろう廃別荘群が林立しており、↓で紹介している「I山荘」とも近いため、結構濃い探索ができるかと思います。
急こう配の細道をひたすら登っていくと祈祷院が見えてきます。
とりあえずロータリー跡と思われる空き地に車を止めます。
←は祈祷院の裏手に当たります。
石段を上った先には集会所のような小屋があります。
中に入ってみると、おおよそ10畳か、もうちょい広いかぐらいの空間が広がっています。
中には物が散乱していますが、すぐに倒壊するようなことはなさそうです。
かつては寄り合いなんかもしていたのでしょうか。
さて、祈祷院の正面に回ってみます。
しっかりと施錠されており、内部探索は身軽な紅魅隊長と同行していたラスカル君にお任せ。
中にはキリストさんの絵が飾ってあり・・・
ありがたい説法を説くステージ。
かつて何度となく鳴り響いたであろうオルガン。
チマチョゴリを着た女性のカレンダー。
ハングルで書かれた讃美歌の歌詞と楽譜。
今回の内部探索に関して、潜入班の話では
今でも使われたいそうなぐらいに綺麗な状態だった。
なぜかチマチョゴリのカレンダーや、ハングルの楽譜など、すべてが未知数だった。
唯一確実なのは、2008年でここの時は停まっている。
とのことだった。
写真を見た限りでは、たしかに朝鮮色が色濃く出ているように感じた。もしかすると朝鮮系のキリシタンが多くを占めていたのかもしれない。
もしかすると表の看板や表向きは日本語で書かれていて、だれでも利用できたが、実のところ朝鮮系のキリシタンの集まりだったのではないか?
とも思う。2002年の日韓ワールドカップ以降竹島問題や歴史問題などで悪化した日韓関係、このころから日本で表面化しだした嫌韓ムードから、地元に住んでいた、もしくは遠方で追い出されるようにやってきた韓国人が、それでも何とか日本にしがみつきたく形成されたコミュニティの一つだったのではないか?そう思えてならない。
だとしたら、近くのI山荘も「辺鄙な場所」「交通の便が悪い」などが客足が伸び悩んだ理由として挙げられているが、内心では「朝鮮系の連中の溜まり場には行きたくない」という心理も働いたのかもしれない。ただし、これはあくまで1個人の推測にすぎないので、本当の理由は定かではない。
I山荘
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
今回は和歌山県紀の川市にあるI山荘についてお話します。こちら2010年まで営業していた、廃墟としてはかなりお若い廃ホテルです。
なのでガラスはほぼ割れていましたが、屋内はかなりきれいな物件でした。
正面玄関から少し横へずれてみます。
この写真だけ見るとマンションの一部のように見えますね。
I山荘の建物はしっかりしていても、手前の倉庫?は廃墟となってからの8年間の疲れが見えてきます。
こちらは正面玄関です。
1階はロビーになっており、かつては幾多の利用客が出入りしていたのでしょう。
そんな山荘も、今では写真では割れたガラスが無造作に散らばっており、足元はかなり危険な状態です。
さて、まずはロビーの探索です。
広くゆったりしたロビーには大きなミッフィーちゃん(?)のぬいぐるみがお出迎え。
小さなお子さんも退屈しないように、との配慮でしょうか?
こちらもロビー。
先ほどのミッフィーちゃんの向かい側です。
大きな机も用意され、泊り客の憩いの場としても機能していたのでしょうか。
おなかが空けば食堂です。
写真では分かりづらいですが、客席があったであろうスペースは結構あり、50人ぐらいは楽に食事ができたと思われます。
「おばちゃーん、から揚げ定食とお酒!」
「はいよっ」
なぜか下町のナポレオン「いいちこ」の一升瓶が置きっぱです。
食堂から厨房の中に入ってみると、食器棚には食器がほぼそのまま残っていました。
ちょっとした一品なら出せそうな数は確保されています。
おなかが膨れたらお風呂です。
鏡も割れずに残っていて、当時の面影を未だ色濃く残しています。
窓からは、今では山の木々や雑草が伸び放題ですが、営業当時はきれいに管理されていたのでしょう。
修学旅行なら、男子はよからぬことを考えそうですねw
こちらはよもぎの釜風呂です。
形からするとサウナのような蒸し風呂のような感じだったのでしょうか?
どうやら日本には馴染みのない文化で、韓国の文化のようだ。
さて、今回は1階のみの探索でした。
というのも到着した時から頻繁に軽トラ乗ったオッチャンや、地元民と思われるおばちゃんたちがジロジロとこちらを見ていくもので・・・。
なんだかすごく見張られている気がしていました。
ここに来る前に祈祷院へも立ち寄ったのですが、移動してくるまでの間廃別荘群を見ることができます。
大変な傾斜の上に「よく建てたな」と感心してしまうような建て方をしています。
もし訪問の際はそちらも見てみるといいかもしれませんね。
犬●隧道(大阪)
皆さんおはようございます、こんにちわ、こんばんわ。
今日は日曜日ですが、先日金曜の晩から土曜の未明にかけて犬鳴隧道へ行ってまいりました。
犬鳴と言えば福岡の方じゃないの??という方が多いかとも思うのですが、大阪の方にもあったりします。そして大阪の犬鳴山は霊山でもあり犬鳴山不動尊、犬鳴温泉が有名です。
これまで何度か訪れていますが、大概何かが起こります。
半透明の腰下だけの女性がカメラの前を横切ったり、何かを引きずるような音がトンネル内から響いてきたり、袖口を引っ張られたり・・・
噂では若い女性の幽霊が出る、ということなのですが何気に気に入られているのでしょうか?w
今回は紅魅隊長、わたくし八重桜に加え、スペシャルゲストとして車遊館さんも一緒です。
出発前からちょっと変な感じがしていましたが、気にしつつも出発します。
今回写真は車遊館さんからの提供です。
さて、大阪市内からは外環状線(国道170号)から府道62号線に乗れば後はひたすら和歌山方面に向けて道なりに突っ走ります。まだぁ?という声が聞こえるころにはもうすぐです。
左の写真の「犬鳴山不動尊本堂」の看板を目印に山道へ入っていきます。
さらに明かりひとつない山道をひたすら登っていきます。
真っ暗な山道をひたすら登っていくと突如として姿を現す犬鳴隧道。
写真どおり、真っ暗な中に唯一の明かりとして現れるので、ちょっとびっくりします。乗ってきた車はその手前に広くなったところがあるので、そこに邪魔にならないように止めるのがいいでしょう。
普段は地元の方の生活道路になっていることもあり、足元、周囲の壁は塗り直し、補修がされており明るく綺麗です。
心霊スポット特有の下品な落書きもありますが、その都度消されているようです。
今回は以前までと比べて嫌な感じはあまりせず、どんどん出口へ向かって進んでいきます。
トンネルを抜けました。
写真は紅魅隊長と八重桜。幽霊がいるとすれば、彼ら・・・いや彼女らからはこう見えるのですねw
トンネルの中はどうってことなかったのですが、トンネルを抜けるといつも嫌な感じが付きまといます。
前回訪れたのはもうかれこれ半年近く前でしたが、そのころ以上です。
前回は一人ずつトンネルを抜けておにぎりパーティーをやってみたりもしていたんですが・・・
今回はそれどころではないぐらいに白い靄が出ています。「気温差で云々・・・」とか言われそうですが、それだけではないような気もします・・・
特にこの看板近くが気持ち悪く、隧道を抜けてしばらくすると突然異変が起こります。だんだんと気分が悪くなり、正直撮影どころではなくなってきました。
変に気を遣わせるのも気が引けたので、それとなく今回は退散の方向にもっていかせてもらいました。本来なら新企画、「心霊スポットで心霊話を朗読」を考えていたのですが、急きょ取りやめになりました。
帰り際にスマホアプリで幽霊探知機のようなお遊びアプリを入れていることを思い出して試しに起動。反応のあった方を映してみたのですが・・・
特に何も映ってませんでした。
ま、そんなもんですかねぇ・・・
ただずっと沢の方からは鳥や動物の声に交じって足音・・・ではなくコン、カチッと音がしていました。
さて、今回の探索は不覚にも八重桜の体調不良で中途半端に断念となったのですが、実は一つ心当たりがあるのです。
←というのがこちら。
一見どこにでもあるネックレスなのですが、実はこれ入手方法にある曰くがあったりします。
ある日深夜に車で山道を走っていたところ、真っ暗で街頭ひとつない山道を白い服を着た一人の女性がトボトボ歩いていたのです。気になって声をかけて乗せてあげました。すると相変わらず何もない山道のガードレールの切れ目あたりで「ここでいいです」というので降ろしてあげたのですが・・・あたりは相変わらず街頭ひとつなく、家が近くにある気配は全くしませんでした。それでも、本人がそう言うなら、と降ろしました。しかし道があるようにも思えず、気になってちょっと行った先で車を止め、本当に大丈夫か様子を見に行きましたが、降ろしたガードレールの切れ目の先には家どころか藪が広がっているだけ。道の向かいにも行けそうな場所は全くなく、持っていた懐中電灯でそこら一帯を探してみても全く人の踏み入った気配はありません。「引き返したのかなぁ」とも思いその場はそのまま走り去ったのですが、目的地に着いたときに彼女が座っていた助手席のシートに何か落ちていることに気づいて手にしたのがこれでした。刻印にはPt950、真ん中についているのはどうやらダイヤ?のようです。自分自身金属アレルギーなので装飾品はおろか、かけている眼鏡でさえ金属部分は極力省いたものを使っていますし、どう見ても女物。ここしばらく乗せた女性はその彼女と母親ぐらいなもの。母親、そして周囲の友人もこんなもの身につけるようなキャラではありません。
今回の探索で初めてこいつを持参してみたのですが・・・もしかしたらこいつがおかしなものを引き寄せてしまったのでしょうか??
探索が終わってひと眠りした後も一日中おかしな動悸と頭痛に襲われ、さらに一日置いた今この記事の編集作業中も首筋から肩にかけてのだるさ、若干の頭痛に悩まされております。
また宝石は魔除けとも、魔を引き寄せ封じるとも言われます。おかしなものが入り込んでなければよいのですが・・・^^;
K温泉
和歌山県紀の川のK温泉。
通車同士の離合すら困難な細い山道をひたすら上った先に、それは突然姿を現す。
昭和56年に営業終了となり30年以上、あと数年で40年に手が届こうかといった物件でである。壁には蔦が這い、建物の脇では崩落もかなり進行しているが、コンクリート製の建物はしっかりしており、すぐにも壊れそうということはなさそうだ。
まずは中に入れそうな場所を探す。写真ではわかりづらいが、建物は道路から川を挟んだ対岸に位置している。
建物への入口自体は2か所、ないし3か所程度あるのだが、いずれもそこへたどり着くまでの橋、通り道は投棄されたゴミや苔に覆われている。橋も当然ゴミやら苔やら、いろんな堆積物が廃墟歴30年以上の貫禄を醸し出す。
橋は石造りかコンクリート製なのだろうが、堆積物のせいか妙にフワフワする。
またこれからの屋内探索を予感させるかのように、橋の脇のおそらく物置か何かであったろう小屋にも大量のごみが散乱する。
橋を渡ると建物への入口なのだが、妙な異臭が鼻をつく。
どうやら散乱した廃棄物からのようだが、なぜか入口辺りでのみひどい異臭を感じた。もしかすると建物の中でもしていたのかもしれないが、入口辺りの強烈な異臭で感覚が鈍ったのかもしれない。
それにしても入口辺りにはなぜか空のペットボトルや空き缶、ご飯のレトルトの空き容器や缶詰やコーヒーなどの空き缶など、不自然なほどに生活ごみが多いな、というのが第一印象だった。
これまでも複数件、こういった廃物件は訪問しているが、あくまで建物内にあったであろう家具や置物などが散乱していることはあっても、これほどまでに生活ごみが投棄されているのは珍しかった。
これはまるで・・・つい最近まで、いや、今でも誰か生活しているのか?
とさえ思わせるような・・・
というのもこの物件、来るまでの道は細く険しく、車一台が通るのがやっとなほどの道幅だが、下った先には民家があり、距離もさほどあるわけではないのだ。
さらに良くも悪くも田舎である。近隣の人の目は都会よりも行き届くであろう。そんな地域で不法投棄など、すぐに通報されそうなものだ。何より週2回は回収されそうな生活ごみをわざわざこんな場所まで捨てに来るだろうか。
その上とあるHPで近隣の住民に話を聞いた折、「この倉田温泉の廃屋には「変な兄やん」がいて人を見つけるとカマやナタを振りかざして追いかけてくるから近寄らないほうがいい。」と聞いたという記事もあった。
今はもういない、と書かれていたが、どうなのだろうか。
写真には撮れなかったが、実はほんの数か月前の賞味期限が書かれたレトルトご飯の空き袋も転がっていたのだ・・・
それはともかく、さらに奥に進む。
生活ごみの山は入り口付近だけのようで、そこを過ぎると家屋の残骸や元々あった家具であろう様々な物品が散乱していた。
床は抜け、天板は剥がれ、嵌っていた障子戸は抜け落ち、足元はすごいことになっていたが、落書きなどはほとんどなく、廃墟としては比較的綺麗な方だといえた。
それぞれの部屋には仏壇や鏡台、テレビなど生活感あふれる物が多く散乱していた。この物件は2階建て。どうやら旅館としての客室は2階、1階は家主の生活の場だったようだ。
1階の他の部屋
2階に突入。
2階部分に上がるにはかなり足場の悪い急な傾斜を上がることになるので注意!今回は一番身軽な紅魅隊長に行ってもらっての撮影。
やはり客間になってきたようで、1階に負けず劣らずの荒れ具合である。しかし写真で見る限りこちらも落書きやごみのポイ捨てはほとんどなかったようで、経年からくる荒れ具合のようだ。
かつては川のせせらぎに耳を傾け、風になびく木々のざわめき、鳥や虫の声に、日々の生活の煩わしさを癒したのであろう。
2階の客室
浴室
最後に、肝心の温泉(浴室)はどこにあったのか。
そう、ここはあくまで温泉なのだ。ここまでの探索で一度も温泉を見ていないのだ。
おそらくこれがそうだったのではないか、という離れがあるのだが、こちらは既に倒壊が進んでおり、とてもじゃないが入っていける状態ではなかった。
I隧道
和歌山県紀の川にある池田隧道は明治時代に作られた隧道。
長さ80m、幅2m、高さ2.3mと現代からすればかなり小ぶりな隧道で、当時は人や荷馬車の通行を主眼に作られた隧道のようです。100年近く経過しているにも拘らずしっかりとしたレンガ造りの坑口は、今すぐ崩れそうということはありません。
少々ぶれていますが中はこんな感じです。整然と積まれたレンガがしっかりと内部を支えています。
そうして中へ進んでいくと・・・
出ました。手掘りです。
どうやら出入り口の部分からそれぞれ10~20mほどはレンガ積み。その間は手掘りそのままのようです。
それでもしっかりとしており、今しばらくはしっかりと現状を保ってくれそうです。